偉人と変人は紙一重!? 偉人のちょっと変わった㊙エピソード

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偉人とは、優れた能力や技術によりその仕事を成し遂げ、多くの人々から感謝や尊敬される偉大な人物のことですが、偉人と呼ばれる人物の中には、日常生活においても少し変わった一面を持っていることがあります。

そんな偉人の少し変わった一面や名言を中心にご紹介します。変人と呼ばれていた人も、実は意外な才能の持ち主かもしれませんよ。


ビスマルク

ビスマルクは、ドイツ帝国の建国者として世界的に有名な偉人の1人です。1815年にプロイセン王国の東部に位置するシェーンハウゼンで貴族の子どもとして生まれ、20代の数年間は地主として自分の領地の管理を行っていた時期もありました。

1847年にプロイセン連合州議会の代議士として政界に入ってから、プロイセン王国の外交官として活躍するなど、国のために積極的な活動を行ってきました。その頃、オーストリアとドイツ連邦の主導権争いが進行していき、1862年にプロイセンの首相に任命されたビスマルクは、その5年後にオーストリアとの戦争の際に勝利を納め、プロイセン主導となる北ドイツ連邦を樹立、その後のフランス戦争にも勝利をして現在のドイツの基盤を築き上げた人物です。

身長約190㎝、体重は多い時で123㎏にもなったことがあるビスマルクは、食事に関する逸話をいくつも持っています。
「牡蠣を一度に175個食べた」というのはビスマルクの自慢話の1つでもありますが、1回の食事で卵を15個食べるのも定番のようです。そのためピザやステーキに卵を乗せた「ビスマルク風」という名前の由来は、このビスマルクの食生活が元となっています。

また、最も面白い逸話としてこのような話があります。ビスマルクの好物であったシャンパーニュ産のワインを飲んでいると、国王ヴィルヘルム1世に「オットー、そなたが飲んでいるのはフランス産のワインではないか」を聞かれたと言います。本来なら戦争相手のフランスで作られたものを食さないと思うのですが、そこでもビスマルクは「畏れながら陛下、愛国心と舌は別物でございます」と切り返したと言います。

国王への切り返しは、さすがとしか言えませんね。


宮沢賢治

宮沢賢治は、日本文学に欠かせない詩人であり童話作家であります。1896年に岩手県で生まれて過酷な風土の中、貧しい幼少期を過ごしていました。1903年に岩手県花巻川口尋常小学校に入学し、その成績はとても優秀であったと言われています。1918年に盛岡高等農林学校卒業後、家業に従事していた宮沢賢治は、日蓮宗の熱心な信者となってその布教活動のために上京、そこで宗教と芸術の合一についての示唆を受けて以降、創作活動にも力を入れるようになっていきました。1921年に県立花巻農学校の教諭となったと同時に、地元の新聞や同人誌に童話や詩の発表を始めていき、1924年には詩集「春と修羅(しゅら)」、童話「注文の多い料理店」を自費出版しています。多くの作品を残して、37歳という若さでこの世を去ってしまうのですが、残されたのは作品だけでなく逸話も多く存在しています。

宮沢賢治は小学生の頃、いたずらの罰として廊下にバケツいっぱいの水を持って立たされた友人を見て、重いだろうなと感じました。「そうだ!バケツの水を飲んで軽くしたらいいんだ」そう思った賢治は、その友人が持っているバケツの水を飲み干してしまったと言います。また、他の友人が赤いシャツを着て学校に来たことをみんなにからかわれていた姿を見て、私も今度は赤いシャツを着てくるからそんなにいじめないで欲しいと言い、周囲を黙らせたそうです。

とても友達想いな一面が見えますね。


勝海舟

勝海舟は江戸時代末期から明治初期の武士であり、政治家でもある人物で、山岡鉄舟と高橋泥舟と共に幕末から明治にかけて活躍したため、幕末の三舟とも呼ばれています。1823年江戸本所亀沢町生まれで、幼名は勝麟太郎を呼ばれていました。幼少期に11代将軍徳川家斉の孫の遊び相手として江戸城に召されました。島田虎之助から剣術を学んでいたことで、直心影流免許皆伝の腕前を持っていますが、これだけでなく勉学についても才能を発揮し、オランダ語の習得は1年で文章までかける程上達しています。1850年に蘭学塾を開いた勝海舟は、ペリーの来航を目の当たりにした際に、身分を問うことなく有用な人材を登用することや、軍艦の建造を書いた意見書を幕府に提出し、これが目に止まったことで目付海防掛に取り立てられました。1860年には初の太平洋横断となる咸臨丸の艦長として、サンフランシスコに行きました。その後、1868年の戊辰戦争の際には軍事総裁という立場で代表して西郷隆盛と相談、江戸城無血開城を決定しました。維新後にも明治政府の要職に就くなど、この時代の政治に欠かせない勝海舟ですが、その逸話はいくつも残されています。

勝海舟は7歳の頃に道で野良犬に睾丸を噛まれてしまい、瀕死の状態に陥ってしまった経験から、大人になっても犬を見ると震えて動けなくなってしまったようです。また非常に女好きということから、愛人が5人程度いたそうで、その子どもは8人以上いるようです。ここまでくると、妻との仲も悪くなってしまうのですが、これによって妻との仲が悪くなることはなかったようです。
有名な名言にも「世の中に無神経ほど強いものはない」「行いは俺のもの、批判は他人のもの。俺は知ったこっちゃない」など、非常に勝海舟らしい言葉が多く残されているため、まさにこの言葉通りの人柄だったのではないかと思います。


芥川龍之介

芥川龍之介は、35歳という若さで自らの命を絶ってしまった日本の文学史において欠かせない人物です。主に短編小説を多く書き、「羅生門」や「蜘蛛の糸」など有名な話が現代に多く残されていて、教科書などに掲載されている話も多くあります。1892年に東京市京橋区に生まれた芥川龍之介は、持病が悪化した母が世話ができなくなったことを理由に生後7ヶ月で母の実家に預けられました。教育熱心な叔母に育てられ、これによって芥川龍之介の基盤となるものが形成されていくほど、この叔母の存在は大きなもののようです。

龍之介が10歳の頃に母が亡くなり、父が龍之介を引き取ろうとしていたのですが、この頃、母の妹であるフユが龍之介の父との間に子どもを授かっていることが分かりました。妻の妹に手を出したことがきっかけでいがみ合い、最終的に龍之介は芥川家の叔父の養子となるのですが、この出来事は彼の心に暗い影を落としてしまうのです。成績優秀な龍之介は中学卒業後に第一高等学校に進学し、そのまま東京帝国大学英文科に入学、同級生たちと雑誌第三次「新思潮」を創刊します。そこで代表作の発表や夏目漱石の弟子となり、その後も意欲的な文学活動をしていくも1921年に心も体も病気になってしまいました。神経衰弱という病の悪化により、心もバランスも失ってしまった龍之介は、1927年に35歳という若さで自らの命を絶ってしまいました。

その芥川龍之介には、このような逸話が残されています。大変なヘビースモーカーであった芥川龍之介は、1日に180本のたばこを吸っていたのですが、そのせいで筆が進まなくなってしまったため、たばこをやめたところ、体重が25kg増えてしまったため、親友に「どちら様ですか?」と問われたことがあるそうです。また、大のお風呂嫌いでほとんどお風呂に入ったことがなく、入っても手ぬぐいを持っていかないことでも知られています。そのため、執筆中に頭を掻きむしると大量のフケが原稿に落ち、編集者をとても困らせたそうです。

やはり偉人らしいエピソードをたっぷり持っていますね。

 


いかがでしたか?

他にも変わったエピソードを持っている偉人がたくさんいます。その人物を知っていくと変わった一面を知ることができるので楽しいですよね。やはり偉人は変人と紙一重なのかもしれません。

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